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« lala06 | ゼロイチ »

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ピアノ

僕はなぜあの時ピアノをやめなかったのか?今こうして冥加とアンサンブルを組んでいると、その疑問へときどき突き当たる。今が充実しているからなのか、あの時の空虚な日々が対照して浮かび上がってくるのだ。
 あれはたったの二年前。賑やかだった函館の洋館が、僕ひとりの暮らす寂しい古家になって久しく、僕は天音の中等部に通ってはひとりでピアノを弾くだけの日々を続けていた。何も考えなかった。自分が孤独であるなんて、改まって認識していたわけでもなかった。
 ただ学校と、帰宅してからとでずっと飽きるまでピアノを弾いていた。聴いてほしい人に聴いてもらえないピアノを。何も生まれず、何も進展しなかった。ただ日が暮れて、指先が少しずつ少しずつかじかんでいく。
 あの時、僕はなぜピアノをやめられなかったのか。先生に置いていかれた時から「いつかピアノをやめる時がくる」と漠然と思ってはいても、それは「今日」ではなかった。ピアノを弾けば弾くほど、先生の求める音楽に届かない僕の音を思い知るのに、それでも。
「絶望を、僕は感じていなかった?」
冥加の部屋のリビングで僕は紅茶を飲んでいる。自分でもこれが独り言なのか質問なのか相談なのかわからないけれど、隣に座る冥加は黙って僕の言葉に耳を傾けてくれている。
「あんな絶望的な状況だったのにね」
僕が自嘲するように呟くと、冥加は手にしていたティーカップを口に運ぶ。そしてぴたりと動きを止め、こう言った。
「好きだったのだろう、ピアノを弾くのが」
冥加はごくりと紅茶を飲み干すとゆっくりとソーサーにカップを戻した。僕は冥加の口から出た意外な言葉をゆっくり反芻する。
「好き……だったのかな」
手に持つ紅茶には僕の顔が映り込んでいた。それが思いのほか綻んでいるように感じられて、僕は少し恥ずかしくなる。
「そうかもね。僕は嫌いなことはしない」
飲みかけの紅茶をテーブルに置く。そして僕は、誤摩化すように隣の冥加に寄り添い身を預けて笑った。
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SSS天冥